私の決意MY DETERMINATION
人と人が出会い、
つながり、共に生き、
世界とつながる世田谷へ。
決意
日本は成長期の終わりを迎え、これからの未来を創る転換期を迎えています。
少子高齢化社会、災害や環境、新型コロナ感染症、テクノロジーの進化など、社会的変化に適応しながら、住みやすく幸せな地域をつくるためには、人と人の「絆」が大切であると感じます。
人、人、人が集まってできるコミュニティ。
百人いれば、百通りの個性があり、生活があり、願いがある。
ひとりひとりの思いに寄り添い、
生活に根ざした政策を実現させる仕事をしたい。
幼少期は、病気との戦いの日々でした。
母をはじめとする家族や友人には、
たくさん支えてもらいました。
人は一人では生きられないことを実感し、
社会に貢献したいと強く思うようになりました。
生まれ育った世田谷から、アメリカ、ポーランド、
ボスニア・ヘルツェゴヴィナでの海外生活を経て、
日本を世界から見てきた経験を
世田谷の政策提言に活かします!
大学まで過ごした大好きな世田谷を飛び出し、海外へ
1981年、世田谷区で生まれました。
天真爛漫に過ごした幼少期を経て、私立の小学校に入学し、キリスト教精神の下、自分の置かれている立場で人の役に立つこと、女性として自立すること、そして社会に貢献することを学びました。
学生時代は身体が弱く、生きるとは何かを問う日々の中で、家族や友人に支えられ、自分の使命を見つけて全うしたいという思いが強くなりました。
大学卒業まで過ごした世田谷を飛び出す決心をして、単身アメリカに渡りました。言葉も分からず、知り合いが一人もいないところからのスタートでした。日本語を教えることになった現地の小学校では、試行錯誤の連続。子供たちの無邪気に学ぶ姿に応えようと、必死で授業の準備をし、「日本語」を教えることは「日本」そのものを教えることなのだと実感しました。
アメリカのホストマザーとは、本物の親子のように打ち解け、国や文化が違っても、人は本当に分かり合えるのだということを身をもって経験しました。あまりに親子のようなので、「養子の日」のイベントで特別ゲストとしてスピーチを求められたほど。だからこそ、同じ日本人同士なら、分かり合うために努力を重ねることで、大概の意見の相違は乗り越えられるはずだとも思えるようになりました。
“教育”を人生の主軸に、世界各国で
経験を積む
アメリカに残ることを決心し、ワシントンDCで現地の日系企業に就職しました。ガイドや通訳、教育関係の仕事を通して、一人前の社会人として育てていただきました。
教育を自分の軸にして仕事をしていきたいと思っていたとき、日本とアメリカをつなぐ、現地の非営利組織で働くことになりました。教育プログラムディレクターとして、日本語学習者を対象にした日本語・日本文化コンテストを担当しながら、その大会を、世界10か国以上に広げる活動にも勤しみました。
結婚、出産を経ても仕事を続けることができたのは、上司の理解と、誰にでも均等にチャンスを与えるアメリカの風潮のおかげだと思いますが、日本でも同様に、仕事を続けたい母親の誰もが、困難を感じずに仕事を継続できる仕組みに変えなければならないと、強く感じています。
祖母、祖父の他界から、
”家族に寄り添った支え”の
必要性を感じる
父方の祖母と、母方の祖父を亡くしたのは、2回とも私がちょうど一時帰国をしていたときでした。2人とも別々の年に、私が帰るのを待ちわびていたかのように息を引き取りました。
祖母は大の病院嫌い。乳がんを患っていた祖母の在宅介護を担ったのは、義理の嫁である母でした。介護の辛さと、生の難しさ、大事な人をそばで看取ることの大変さを真横で経験しました。
祖父はホームを転々とし、家族と社会に精一杯支えられつつも、孤独を感じながらの最期だったのではないかと思います。
介護の形に正解はない。生き方同様に、死に方も人それぞれです。その人、その家族に寄り添った支えが必要であると実感しました。
様々な異文化での経験、東日本大震災
から感じた、世界の繋がり、
人と人の
繋がりの重要性
夫の海外赴任に伴ってポーランドとボスニア・ヘルツェゴヴィナで生活し、様々な異文化を経験しました。日本語教育活動を続ける中で、日本を好きでいてくれる世界各国の若者たちと知り合い、彼らが将来の日本を支えてくれる存在であることを強く意識するようになりました。そしてそれは振りかえって、そのまま日本での英語教育にも当てはまると思っています。言葉は道具でしかない。人と人が分かりあい、理解しあうには、お互いの文化の違いを知り、認め合うことが必要です。また、学びの場に情熱が加わると、人はとてつもなく大きな可能性を発揮できるのだということを、若者たちから学びました。世田谷からも世界で活躍できる人材がどんどん輩出されることを望んでいます。
2011年3月11日の東日本大震災の光景は、未だにこの目に焼き付いています。あの日私は、親友の結婚式に出席するため、一時帰国で成田空港に到着する間際の飛行機の中にいました。家族と連絡がつかず、お店からは物がなくなり、日本はもうだめだと、泣きながら友人に電話しました。アメリカに戻り、駅で募金集めをしました。ホームレスのおじさんが来て、自分が集めたお金を日本のために使ってほしいと寄付してくれたことは忘れません。日本は世界に支えられているのだと強く実感しました。そして国と国をつなぐのは、結局は人と人なのだということも学びました。
私の決意。
私の決意。
海外で育てていた息子が3歳になる頃、10年強の海外での生活を終えて、家族で日本に帰国することになりました。日本に戻ってみると、働きたい子育て世代に対する制度や選択肢の数が、海外と比較して少なく、家族のライフスタイルにそった保育の受け皿が足りないことに衝撃を受けました。母親として、「こう生きたい」を考える前に、「こうでなければならない」が優先されている現状を変えるためには、子育て世代の声をもっと政策に活かす必要があると思いました。
政治の世界へ
2019年に世田谷区議会議員に初めて立候補しました。選挙に必要とされるジバン、カンバン、カバンのいずれもなく、無所属での立候補は、どう考えても無謀な挑戦でした。しかし一人、また一人と、応援してくれる方との出会いに恵まれ、「とりあえず、やってみる!」という持前のエネルギーを何とか保ちながら、選挙戦を迎えることができました。途中で2回ほどあきらめそうになった時には、夫が背中を押してくれました。日本では女性が出馬しようとすると、家庭内で反対されるという話をよく聞きます。妻であっても一人の人間であり、その夢を応援しようとしてくれるパートナーに出会うことができたのは、とても幸せなことです。
1期目の4年間は、政治や議会がどのように活動しているのかを知るところからの始まりでした。無所属の交渉会派で先輩議員に教えていただきながら、必死で学ぶ日々でした。初年度から都市整備委員会の副委員長を務めることになり、新人としてはあまり例を見ない代表質問にも立たせていただきました。2年がたった時、「国際都市せたがや」という会派を立ち上げ、一人になりました。2期目の選挙でも当選させていただき、今に至ります。
議員になって得られた一番の財産は、街を良くしたい!という志をもつ方々との出会いです。あきらめそうになっても頑張ろうと思えるのは、共に働き、共に生きていきたい、と思える仲間に出会えたからです。
区内のさまざまな場所で、まちづくりに力を入れている方々がいます。地域にいる属性の異なる人をつないで、顔が見える関係性の中でお互いを思いやることができる居場所をつくっている人たちがいます。結局のところ、自分の生活圏の半径2キロ以内に、居心地が良いと思える人がいたり、居場所があったりして、そこにふらっと立ち寄れることが、住みやすい街につながっていくのではないかと考えます。そういったまちづくり活動をしている人たちを応援し続けます。
当区の人口は、92万人を越えました。東京都最大の人口を誇る当区ならではの課題は、たくさんあります。多様な人生を尊重するためには、多様な選択肢が必要で、そのためには多額の予算もかかります。個々人の生活に優劣をつけることができない中で、限られた財源を何にどのように使っていくのか、考えて実行しなければなりません。これからは、自助、共助、公助の中でも共助の役割がより大切になっていくと思います。一人ではできないことでも、数人が集まればできるかもしれない、公的立場では乗り越えられなくても、官と民が連携することで新たなアイディアが生まれ、形になるかもしれない。
そのためにはまず、個々人がもっと地域に目を向け、様々な人とつながり、必要な時には声をあげる必要があります。知らない人と話したり、声を上げたりするには勇気がいります。しかし誰もが出る杭になることを目指した時、社会は少しずつ活性化していくのではないでしょうか。私は、女性として、妻として、母として、そして一人の人間として、変化を求めることをあきらめたくありません。そして志を共にする仲間たちと一緒に、歩み続けたいです。
百人いれば、百通りの個性があり、生活があり、願いがある。
それぞれの身体的、精神的、社会的に幸せな状態(ウェルビーイング)を保つために、新たな価値観を求める時代がやってきました。子どもから高齢者までが豊かに暮らせる基盤をつくることができれば、世田谷は世界のロールモデルになれる可能性を十分に秘めています。
人と人が出会い、つながり、共に生き、生き生きとワクワクにあふれた世田谷づくりを目指します。