人と人が出会い、つながり分かりあう。
世界とつながる世田谷へ。

人と人が出会い
つながり分かりあう
世界とつながる世田谷へ

インターネットやSNSが普及する今だからこそ、
人と人の「絆」の大切さを感じます。
そして人、人、人が集まってできるコミュニティ。
百人いれば、百通りの個性があり、生活があり、願いがある。
ひとりひとりの思いに寄り添い、
生活に根ざした政策を実現させる仕事をしたい。
幼少期は、病気との戦いの日々でした。
母をはじめとする家族や友人には、
たくさん支えてもらいました。
人は一人では生きられないことを実感し、
社会に貢献したいと強く思うようになりました。
生まれ育った世田谷から、アメリカ、ポーランド、
ボスニア・ヘルツェゴヴィナでの海外生活を経て、
日本を世界から見てきた経験を
世田谷の政策提言に活かします!

大学まで過ごした大好きな世田谷を飛び出し、海外へ


1981年、世田谷区で生まれました。
天真爛漫に過ごした幼少期を経て、私立の小学校に入学し、キリスト教精神の下、自分の置かれている立場で人の役に立つこと、女性として自立すること、そして社会に貢献することを学びました。
学生時代は身体が弱く、生きるとは何かを問う日々の中で、家族や友人に支えられ、自分の使命を見つけて全うしたいという思いが強くなりました。

大学卒業まで過ごした世田谷を飛び出す決心をして、単身アメリカに渡りました。言葉も分からず、知り合いが一人もいないところからのスタートでした。日本語を教えることになった現地の小学校では、試行錯誤の連続。子供たちの無邪気に学ぶ姿に応えようと、必死で授業の準備をし、「日本語」を教えることは「日本」そのものを教えることなのだと実感しました。

アメリカのホストマザーとは、本物の親子のように打ち解け、国や文化が違っても、人は本当に分かり合えるのだということを身をもって経験しました。あまりに親子のようなので、「養子の日」のイベントで特別ゲストとしてスピーチを求められたほど。だからこそ、同じ日本人同士なら、分かり合うために努力を重ねることで、大概の意見の相違は乗り越えられるはずだとも思えるようになりました。


教育を人生の主軸に、世界各国で経験を積む


アメリカに残ることを決心し、ワシントンDCで現地の日系企業に就職しました。ガイドや通訳、教育関係の仕事を通して、一人前の社会人として育てていただきました。

教育を自分の軸にして仕事をしていきたいと思っていたとき、日本とアメリカをつなぐ、現地の非営利組織で働くことになりました。教育プログラムディレクターとして、日本語学習者を対象にした日本語・日本文化コンテストを担当しながら、その大会を、世界10か国以上に広げる活動にも勤しみました。

結婚、出産を経ても仕事を続けることができたのは、上司の理解と、誰にでも均等にチャンスを与えるアメリカの風潮のおかげだと思いますが、日本でも同様に、仕事を続けたい母親の誰もが、困難を感じずに仕事を継続できる仕組みに変えなければならないと、強く感じています。


祖母、祖父の他界から、
家族に寄り添った支えの必要性を感じる


父方の祖母と、母方の祖父を亡くしたのは、2回とも私がちょうど一時帰国をしていたときでした。2人とも別々の年に、私が帰るのを待ちわびていたかのように息を引き取りました。祖母は大の病院嫌い。乳がんを患っていた祖母の在宅介護を担ったのは、義理の嫁である母でした。介護の辛さと、生の難しさ、大事な人をそばで看取ることの大変さを真横で経験しました。祖父はホームを転々とし、家族と社会に精一杯支えられつつも、孤独を感じながらの最期だったのではないかと思います。介護の形に正解はない。生き方同様に、死に方も人それぞれです。その人、その家族に寄り添った支えを社会が必要としています。


様々な異文化での経験、東日本大震災から感じた、世界の繋がり、人と人の繋がりの重要性


夫の海外赴任に伴ってポーランドとボスニア・ヘルツェゴヴィナで生活し、様々な異文化を経験しました。日本語教育活動を続ける中で、日本を好きでいてくれる世界各国の若者たちと知り合い、彼らが将来の日本を支えてくれる存在であることを強く意識するようになりました。そしてそれは振りかえって、そのまま日本での英語教育にも当てはまると思っています。言葉は道具でしかない。人と人が分かりあい、理解しあうには、お互いの文化の違いを知り、認め合うことが必要です。また、学びの場に情熱が加わると、人はとてつもなく大きな可能性を発揮できるのだということを、若者たちから学びました。世田谷からも世界で活躍できる人材がどんどん輩出されることを望んでいます。

2011年3月11日の東日本大震災の光景は、未だにこの目に焼き付いています。あの日私は、親友の結婚式に出席するため、一時帰国で成田空港に到着する間際の飛行機の中にいました。家族と連絡がつかず、お店からは物がなくなり、日本はもうだめだと、泣きながら友人に電話しました。アメリカに戻り、駅で募金集めをしました。ホームレスのおじさんが来て、自分が集めたお金を日本のために使ってほしいと寄付してくれたことは忘れません。日本は世界に支えられているのだと強く実感しました。そして国と国をつなぐのは、結局は人と人なのだということも学びました。


私の決意。


海外で育てていた息子の幼稚園を控え、日本に帰国しました。そして保育の選択肢と内容が、海外のそれと大分かけ離れていることに衝撃を受けました。家族のライフスタイルにそった保育の受け皿を作るためには、できる限り制度を寛容にする必要があると思います。母親として「こうでなければならない」ではなく「こう生きたい」が優先される社会にするには、子育て世代の声をもっと政策に活かさなければなりません。そのためにはまず、私たちが声をあげる必要があります。 声を大にするには勇気がいります。しかし誰もが出る杭になることを目指した時、社会は活性化していくのではないでしょうか。私は女性として、妻として、母親として、そして何より一人の人間として、変化を求めることをあきらめたくありません。そして志を共にする人たちと一緒に歩み続けたいです。 百人いれば、百通りの個性があり、生活があり、願いがある。ひとりひとりの思いに寄り添い、生活に根差した政策を実現させたい。地域の災害への備えを万全にし、少子高齢化問題を乗り越えて、生き生きとした社会を創ることで、百万人都市を目指す世田谷は、世界のロールモデルになれる可能性を十分に秘めています。 人と人が出会い、つながり、共に生き、実践と改善を経て、世界に発信できる理想の世田谷づくりを目指します!

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